今日は大手町から京浜東北線に乗って、品川で降り
それから山手線に乗り込みました。
車両の中はそこそこ混んでいるのが一目瞭然でしたが
乗り込むと、三人掛けの椅子の周りだけは何故かガラガラだったのです。
不思議に思い、その場所に立つとなるほどその理由がわかりました。
端っこの席に泥酔した、みるからに浮浪者のおじさんがくだを巻いて
座っていました。それと、眉間にしわを寄せながら寝たふりをしている青年。
おじさんと青年の間には、一人分の隙間が空いていました。
おじさんはしきりに青年の方を向きながら怒鳴っています。
というよりも、おじさんと青年の間の隙間に向かって
怒っているようにも見えます。
よく聞いてみると「俺は許さないぞ!」なんていう言葉も聞こえました。
見えない敵と戦うって、このことかなと思っていると
次の駅に到着し、私を押しのけて男子学生がおじさんと青年の間に
どっかりと座りました。
おじさんの服は泥(砂?)まみれでシミだらけ、おまけにすごい臭いも
漂っているのに、その男子学生はほとんど無関心で携帯をいじっています。
おじさんは今度はその男子学生の方に向かって怒鳴り始めましたが
彼は微動だにせず、携帯の画面に食い入ります。
それを見て私は唖然としました。
他人に無関心とはこういうことを言うのだな、と。
そして、このおじさんは、どうして見えない敵と戦っているのかと
思い始めました。
そういえば幼少期のころ、近所にこのようなおばさんがいました。
誰も周りにいないのに、いつも一人で怒鳴りながら歩いていました。
たまに、旦那さんらしき男性がおばさんの手をひいて歩いているのも
見かけましたが、子供心にその様子は奇妙に映りました。
そして母親に聞きました、
「どうしてあのおばさんは、誰もいないのに怒鳴ってるの?」
母親はそのときは、何も言いませんでした。
理由がわかったのは、私が成人してからです。
おばさんは、2人の娘さんがいたらしいのですが、原因不明の難病により
娘さんたちを相次いで亡くされたそうです。
おばさんは、長いこと娘さんたちの看病をされたようですが、
努力も空しく、2人とも亡くなってしまったということです。
おばさんは、悲しんだのでしょう。
それは、気が狂うぐらいの悲しみだったのでしょう。
誰かに傷つけられたら、相手を憎めばいいけれど、
その対象となる相手すらいなく、
どこにもぶつけることのできない慟哭を、自分にぶつけるしかなかったのでしょう。
今でもたまに、あのおばさんのことを思い出しますけれど、
目の前で怒鳴っているおじさんも、
何があったかはわからないですが、気が違ってしまうような、
とてつもない悲しみに襲われた結果、こうなってしまったのではないかなと
ふと思うのです。
そう考えてみると、
酔ってくだを巻いて、怒鳴っているおじさんはとても繊細な神経の持ち主にみえました。
その繊細さゆえに、自分自身をも壊してしまったのでしょう。
そして、隣で何も気にせず携帯をいじっている男子学生は、何事にも無関心、
そもそも神経というものがないのかもしれません。
誰かが、すぐ隣で壊れたとしても、彼は何とも思わないでしょう。
まるで正反対の2人が、何の因果か隣同士で座っていました。
現代の日本では、この2人のようなタイプの人間が増えていますね。
精神を病んでしまう人。
他人に無関心で、殺人をも厭わない人。
彼らは現代を象徴していると思うのです。
この世の中で生きていくには
精神が繊細すぎても、鈍感すぎてもいけない、ニュートラルが一番いいのですが、
この2人に足りていないのはきっと「愛」なんだろうなと思います。
ところで、
悲しいかな私は「愛」なんて簡単にいう人間を偽善的に感じてしまう
ひねくれ者です。
ですから、そんな私が「愛」なんていうと、かなりうさんくさいのですが、
きっと愛がいろいろなものを解決するのだと思うのです、
ここで言う愛とは、慈愛です。
話は変わりますが、
「かのん」さんのお名前は、すごく興味深いですね、
彼女が初めてシオラにやってきたとき、ブログを一生懸命に作っていたのです。
タイトルをチラ見したら、「cannon attack」ん?キャノン砲で攻撃?
あー、だから「かのん」さんなんだー。納得。
なんて思ってその場をやり過ごした。
でも、それからキャノン砲が気になって
歩きながらふと考えてみた。
いったいぜんたい、なんでキャノン砲なんだ?
と。
「cannon」は大砲ですので、「攻撃」の意味がありますけれど、
「cannon」は観音の音もありますね、観音とはつまり「慈愛」です。
彼女にそんなことを言ったら、「わかりましたか?」と言って悪戯っぽく笑っていました。
「慈愛」の良いにおいがしました。